労働意欲を増進 / 減退させる家電

先月、掃除機を買い替えた。どうせ毎日使うのだからと、ちょっと高くてイイやつを買った。これがいたって使い心地がいい。それまで使っていたのがシングル世帯向けのスタンドタイプで、ごくシンプルな機能しかなかったぶん、新しい掃除機の高性能ぶりが際立って感じられる。
吸引力がパワフルとかメンテナンスが楽ちんとか、機能面で充実しているのは当然としても、使う人の動作がより少なくて済むよう考えて設計されているのが何よりすばらしい。人間工学的にもよくできているのだ。
しかし、使っているうちに、この掃除機にも欠点があるのに気がついた。それは、「ダストケースの中身が外側から見えない」ことである。
前の掃除機はダストケースが透明で、掃除機をかけながら、吸い取られたほこりがケースの中でくるくる回りながら大きく育っていくのを、つぶさに見ることができた。これが楽しかった。掃除を終える頃には、ほこりの結晶は拳大くらいまで成長していて(笑)、それを見てその日の掃除の成果を実感することができた。
ところが、新しい掃除機は、ダストケースの中身が外側から見えない。すでにどれだけのほこりを吸い取ったのか、わからないのだ。
これが、掃除をするモチベーションに、大きく影響する。ほこりの存在が視覚的に認識できないから、そもそも掃除する必要性がないような気さえしてくる。
毎日部屋に掃除機をかけることは、猫を飼い始めたとき、私が自分自身に課したノルマだった。ノルマと言っても、以前の「ほこりが見える」掃除機を使っていた頃は、そのつどごっそりとほこりが取れるのが痛快で、むしろ楽しく、義務感などみじんもなかった。ところが、新しい掃除機に替えてからその気持ちは萎え、これほどひんぱんに掃除機をかける自分に、疑問さえ感じるようになってしまったのだった。
目に見える成果が、モチベーションを維持するのにいかに重要か、ということ。
この手の家電製品て、設計時に、「使う人の家事労働意欲を増進させるインターフェースになっているか」という点までは、考慮されないのかな。
Posted by mik at 11:16 AM
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写真が上手に撮れたらな

写真を上手に撮れるようになりたい。飼い猫のスナップばかりじゃなくて、風景写真とか人物のポートレートとか、撮影技術の全般についてマスターしたい。
自分で撮った写真を見てみて、下手くそなのは分かるし、プロの写真家の撮影した作品を見て優れているのも分かるけど、ではどうやったら上手に撮れるのか?となるとさっぱり見当がつかない。そこがもどかしい。
私は趣味で英会話を習っている。まだまだ流暢と言うにはほど遠いレベル。言いたいことが頭の中にあっても、これを英語で表現するとなると、適当な言い回しが浮かばなかったり、語彙が足りなかったりで、何度も言い淀んでしまって、このときもやっぱりもどかしい。
日常の中で、こういう、もどかしいと感じる場面がしばしばある。思うように(写真を)撮れないとか、(英語で)喋れないとか。どんな写真が撮りたいか、何を相手に伝えたいか、イメージできるのに表現できない。
この表現力が足りないためのもどかしさというのは、とてもフラストレーティングだ。だから私は、写真の撮り方を勉強したい。英語をきちんと話せるようになりたい。撮影技術や語学力がハードルになることなく、自由に表現できればいいなと思う。
同じようなもどかしさを感じることは、他にもあって、例えばふだん日本語で話したり書いたりするときにも感じる。人に伝えたいことと実際に伝わることのギャップが大きい。たぶん文章の構成力とか、論理的に思考する能力とかの問題。
あと、自分にソーイング(裁縫)の技術があったらよかったのに、なんてことも思う。「こんな服がほしい」とか「こういうデザインのペットグッズがあったらいいのに」とか思いついたとき、自分で自在に作ることができたら、どんなにスッキリするだろう。実際、そういう器用な人たちは世の中に大勢いて、羨ましいことこの上ない。
表現するための知識や技術を身につけることって、もどかしさのフラストレーションから解放されることなんじゃないだろうか。
もっと勉強したいな、いろいろ。
Posted by mik at 12:22 PM
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合理的で味気ない食生活
今年、うちの近くに新しくオープンしたスーパーは、業務用食材、すなわちレストランなどの外食サービス業者に仕入れるための商品を主に扱っている。だけど個人客も利用できるので、私もときどきそこで買い物をする。一般のスーパーと比べて品揃えがユニークで、店内をぶらぶら見て歩くだけでもおもしろい。
業務用だけに、kg単位といったまとまった量の食材が多くて(個人の客は少し買い求めづらい)、価格もびっくりするほど安い。
しかし何より興味深いのは、業務用冷凍食品の種類の豊富さ。下ごしらえ済みの肉、野菜、魚介類といった食材、あるいは調理済みのお総菜が、揚げるだけ、焼くだけ、暖めるだけ、もしくはそのまま皿に盛って食べられる状態で、販売されている。
標準的な食堂のメニューだったら、おおよそこの店で売られている冷凍食品だけで事足りそうな感じ。
実はレストランの厨房では調理なんてほとんどしていなくて、こういう調理加工済み食品のパッケージを開封して、皿に載せて客に提供しているだけなのでは、という気が本当にしてくる。
外食産業というのは、この手のできあいの総菜を、いかに工夫を凝らして美味しそうに盛りつけ、客に満足して食べてもらうかの意匠こそが売り物なのかもしれない。
日々できあいのお総菜を重宝させてもらっている私が言っても説得力ゼロなのだけれど、料理というのは、作る過程こそが創造的であり教育的であって、意味のある部分なのではないだろうか。結果だけ、つまり出来上がった料理だけを買ってそれで済ますというのは、合理的だけど味気ない。
このスーパーの店内を歩いていると、(私自身を含め)現代人の食生活における徹底した合理性を目の当たりにするようで、もの寂しくなる。
※写真と本文は関係ありません、もちろん。
Posted by mik at 09:32 PM
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後ろめたい消費者のわたし
消費経済とエコロジーというのは、互いに背反するような気がしてならない。
私たちが生活の中で実践できるエコロジーの基本は3R、すなわち「Reduce」「Reuse」「Recycle」なのだが、このうちReduce、つまり消費や需要を減らそうという方向性は、経済の世界においては歓迎されていない感じ(当たり前か)。
モノをたくさん売るには、消費者にいかにストレスなく物を捨てさせ、次のモノを買う気にさせるかが大切だ。
私は石油製品を買ったり捨てたりすることに強い抵抗を感じるのだけれど、巷にあふれるプラスチック製品が二束三文の価格で販売され、あるいは無料で付いてくるのに違和感を覚える。
100円ショップの店内に山積みされたプラスチック製のコンテナ類を目にするたび、複雑な気持ちになる。たとえばこの製品を購入して使用した後、廃棄するのにかかる環境負荷を、(植樹とかで)人為的に相殺した場合のコストを価格に反映させたら、いったいいくらぐらいになるのだろう。
キリンの『生茶』が、潰しやすくて廃棄するときかさばらないペットボトルを採用しただけでエコロジーを自称しているのは、勘違いもいいところだと思った。
「買いやすい」「捨てやすい」ということは、次の消費を促す。
「地球は丸い」という真実を初めてつきとめた人は、そのときどんな気持ちになっただろう。衝撃か驚愕か、それとも不思議か。
私は感動する。大地は永久に続くように見えて、どこまでもつき進んでいけば、必ずまた元の場所に戻ってくるという真理(もしくは皮肉)。この世界が無限ではないということ。世界は閉じていて、この中だけで循環し完結するシステムの中で、私たちは暮らしているということ。なんて小さくてシンプルで美しいのだろうと思う。
宇宙船地球号なんて言葉もあったけれど、私たちは、この星の上にあるものだけでやりくりして、暮らしを維持していかなければいけない。
それなのに、石油や森林や鉱物、淡水といった資源やそれらを利用して作られた製品が、じゃんじゃん供給されて、まさに湯水のように消費されていく現状は、いったいどうなんだか。
今日もキッチンでアルミホイルを切りながら、アルミ製品がいかに安価であるかを思い起こし、はたしてアルミという鉱物は無尽蔵だったか、あるいはそうであるかのように錯覚していられる消費者という私たち、なんてテーマを自問しつつ、こうしている間にも少しずつ海に沈んでいくツバルの島々に思いをはせたり。
消費行為という享楽の後ろめたさ。私たちは罪深い。
Posted by mik at 06:54 AM
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所有欲についてのロジック
「私、セロリが嫌いで本当によかった。だって、もしセロリが好きだったら、セロリをたくさん食べなくちゃいけなかったもの。」というのは、確か『アリスの算数パズル』に出てくる台詞(セロリじゃなかったかも?)。これは価値観の本質を言い得ていると思う。
ものの価値は、ある条件のもとでしか成り立たない。セロリを食べる苦痛はセロリ嫌いにしか体験できないし、逆に、セロリの美味しさはセロリ好きにしか理解できない。生活の中でふと物欲にかられたとき、私はいつもこれを思い出す。
欲しいけれど簡単には手に入らない何かがあって、手に入れたいと強く願うとき、その気持ちは「それを持っていない」状態でしか持続しない。もしそれを手に入れてしまったら、私は満足し、それまで心の中で燦然と輝き魅力を放っていたはずの対象を、その格付けから降ろすだろう。
だったらいっそ、欲しい物は欲しいままでいるほうがいいんじゃないのか? この考えは、いつも私の物欲に冷や水をかける。手に入れて「それがある」のが当たり前になってしまうより、「それが欲しい」と願い続けているときの方が幸せなんじゃないだろうか、と。
だから私は物に執着しないし、何かを手に入れてやるという貪欲さも野心もないのだな。
私が欲しいと思ったもの。それは家と猫。
それにしてもどうして私はこう理屈っぽいかね。人生、踏みとどまってばかりだ。
Posted by mik at 11:35 PM
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スタイリッシュなメニュー
パンプディングで思い出したのが、エドワード・ゴーリーの絵本「敬虔な幼子」。主人公の少年が、お腹をすかせた貧しい老婆に分け与えるのが、自分の分のパンプディング。これ読んだとき、なぜパンプディング?! と思った。そんな小洒落た…。だいいち主食じゃないし。向こうの食文化ではフツーなのか、パンプディング。
佐藤雅彦のマンガでもこんなのがあった。刑事が、取り調べ中の犯人のために出前を注文してやるのだが、それがカツ丼ではなくてなぜかクラブハウスサンドイッチ、というオチ。
ちょっと洗練されてる感じのメニューって、なんか浮いてて笑ってしまう。最近、コンビニのお総菜やファミレスの料理なんかにも、ネーミングばっかりスタイリッシュなのが多くて失笑。いや、さっき食べたパンプディングはおいしかったけど。
Posted by mik at 11:58 PM
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毎日暑いけどさ
うちにはエアコンがない。住んでいるのは千葉市内だから、間違っても涼しい土地ではないけど、それでも私はここで過ごす8度目の夏を、やはりエアコンなしで越すつもりでいる。
そもそも実家が比較的涼しい土地にあって、そこではエアコンのある家庭は少数派だった。そういう所で育った私の感覚では、エアコンはいまだに「ぜいたく品」なのだ。いやホント。
それでなくても、私は環境問題に対する関心が高くて、できるだけ環境負荷を少なくして暮らしていきたいと思っている。さすがに、エアコンは環境の敵だ!とまでは言わないし、実際、職場などではエアコンなしでは仕事にならないと思う。でも、「暑さ」に対する回答が「エアコン」だとしたら、それは全体としては間違ってる気がする。テクノロジーのおごりのような気がする。
我々って、生活の質のベクトルを、少しだけプリミティブな方向に戻せないだろうか。「涼しくて快適な生活はエアコンを買えば手に入る」のような考え方は、ごく消費文明的だと思うのですよ。たとえば昔の人の知恵にあったように、打ち水するとか簾(すだれ)をかけるとか、風鈴の音で涼しさを演出するとか、暑さを受け入れつつ暮らしていけないだろうかと。
それでもやっぱり、炎天下を歩いたあと入ったお店なんかで、キンキンに冷房が効いてると正直嬉しいんだけどね。
Posted by mik at 01:41 PM
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買い物カゴと目眩
スーパーやデパートに買い物に行くと、目眩を感じることがある。商品がうず高く積み上げられた陳列棚の間であれこれ物色していると、何だろう、それらが商品としてそこに陳列されるまでの間に経てきた全てのプロセスと、それに関わった人々の存在をイメージして、その労力と意匠の密度の濃さに圧倒されてしまうのだ。
メーカーによる企画、戦略、広告。食料品ならば原材料の育成、収穫、加工、運搬。小売店への納品、陳列、販売。一個一個の商品の背景に、そういった膨大な物語が潜んでいるかと思うと、それぞれが私の購買意欲をそそるべく、一斉にアピールしてくる感じがする。そのエネルギーに気圧される。私は強く緊張する。
一応にもデザインを仕事としている私が、人にアピールする意匠を考えるのが仕事の私が、そんなことを言っていてどうするんだとは思うけれども。
たまに出かける旅行先で、手つかずの大自然に抱かれちゃったときなんかに感動するのは、その美しさやスケールの大きさが人の手で作られたのではないところ、無作為であるところによるのではないのかなあと思う。
Posted by mik at 12:26 AM
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